日本で暮らしていると、桜はあまりにも身近で、あまりにも特別だ。
見頃の時期はほんのわずかなのに、その短ささえ魅力として受け入れられている。
むしろ短いからこそ、より強く印象に残っているのかもしれない。
思い返せば、人生の節目にはいつも桜があった。
幼稚園や小学校、中学校。卒業式や入学式。緊張しながら見上げた空に咲いていたのはいつも桜だった。
新しい環境に入る不安や楽しみ、何かが終わってしまう寂しさ。出会いと別れの記憶をたどると、その光景にはいつも桜が咲いているものだ。
もちろん、当時はそんなことを深く考えていたわけではない。
ただ毎年、春になると桜が咲いて、気づいたころには葉桜になっていた。
そんな短くも深い印象に残りやすい桜の季節は、大人になって振り返るとただの春の象徴ではなくて、過ごしてきた時間のマイルストーンのような存在に感じている。人生の節目を思い出させてくれる存在と言ってもいいかもしれない。
そして今、フォトグラファーとして、また違った形で桜と触れ合う機会に恵まれている。
撮る側になってみて初めて気づいたのは、桜はただ「春に咲く花」ではなく、思っていた以上に表情の幅があるということだった。
咲く時期を気にして、天気を見て、どこが見頃なのかを追いかけているうちに、桜には多くの種類があることを知った。
そしてその違いを意識し始めると、桜はますます面白くなっていった。
・早咲きで、春の始まりを知らせる河津桜。
・背景の密度が出やすく、人物を包み込むように咲く枝垂れ桜。
・白に近い淡い花色で、入学式の頃の記憶と結びつく王道のソメイヨシノ。
・そして、少し遅れて咲き、花の厚みと華やかさを見せる八重桜。
咲く時期も少しずつ違えば、写真にしたときの見え方も少しずつ違う。
同じ「桜」なのに、それぞれに役割があって、それぞれに似合う時間があるのだろうと思う。

たとえばソメイヨシノ。
ソメイヨシノは一本の華やかさというより、並木や桜のトンネルになったときに、その空間全体を春に変えてくれるような魅力を持っていると思っている。
誰か一人を強く主役にするというより、複数人の被写体みんながその景色の中に自然に入っていける、そんな強さを持っている。
並んでも、歩いても、少し距離をとっても、その場の空気ごと残してくれる。
一方で枝垂れ桜は、もっと親密で、もっと個人に寄り添う桜だ。
枝が下に流れているから花の密度が出やすく、人物を包み込むような背景を作ってくれる。一人の表情や、一頭の存在感をぐっと引き立てるには、枝垂れ桜の方が似合うこともある。
「咲いたから撮る」のではなく、誰をどう残したいかによって、実は追いかける桜も少しずつ変わっていく。

どれだけ桜の種類や写り方の違いを知ったとて、根っこのところで自分が惹かれている理由は、もっとシンプルで淡い。
別れと始まりが同時にやってくるあの落ち着かない春の空気は、一年の中でも格別で特別な瞬間で。
懐かしさ、切なさ、期待、上手く言葉にしきれない淡い感情を一緒に連れてきてくれる。
桜には「今」だけではなく、「これまで」と「これから」まで一緒に写り込んでくるような感覚があるし、他の花木とは全く異なる性質を持っている。
気づけば毎年桜を追いかけている。
咲き始めを気にして、天気予報を見て、街に咲く桜を見て「今年も春が来たな」なんて。
桜を見ているようで、本当は私の中でもう終わってしまった青春を、辿っているのかもしれない。
人生であと何回桜を見られるだろう。来年もまた、そんなことを想いながら桜を追いかけているんだろう。







